中村:
はい、皆さんこんにちは
今日はですね、にほんの同窓会のふるさとシリーズというのをやってみよう
かなと思いまして、その第1弾で、長野県人会連合会月刊「信州の東京」という
この月刊誌があるんですけれども、そこの編集長をされている山岸喜昭様
にお越しいただいております
実はこの山岸様、ちょうど2年前に松代高校の支部長としてその運営の
ノウハウ等をお伺いしまして、そのお話を伺っていく中で人生の後半を長野
県に捧げようという強い思いで、関東支部を支部長をされているということ
で、上手くいっている例だなということをお伺いして、その話の中で
県人会連合会というこちらの方の活動も併せて行っているということで、
そういう風に枠を広げてふるさとという物に対して貢献されている姿を追っても
良いかなということで…
今日お越しいただきまして、ありがとうございます
山岸編集長:
どうもありがとうございます
長野県人会の成り立ち
中村:
私は実はですね、県人会というのがよく分からないんですけれど、ちょっと
この県人会とはどういうものなのか
山岸編集長:
長野県人会連合会の歴史でございますけども、昭和5年に東京都内で各地区
ごとに県人会がございました
その各地区の県人会がそのまま残しておいて、東京の各県人会を1つに
まとめて長野県人会連合会という県人会組織を作ったわけなんです
したがいまして、県人会は自分の住んでいる各地区の県人会
例えば、渋谷区県人会とか、品川区県人会、小平市県人会、に加入をして
そちらの各県人会ごとの活動とですね
もう1つは長野県人会連合会という活動もございます
中村:
全部統合したわけですね、連合会としては
山岸編集長:
はい
中村:
元々地区ごとにはあったわけですね
山岸編集長:
地区ごとにありまして、その地区の県人会を総合してまとめて長野県人会
連合会というのを作ったわけです
中村:
それは後から出来たわけですね、連合会はそうすると
山岸編集長:
連合会は後から出来たんです
中村:
なるほど
長野県人会連合会の主な活動について
山岸編集長:
ですから、各地区は地区の県人会として活動をして
じゃあ長野県人会連合会の主な活動はどういったものだろうかと
皆様の共通の活動をしてきましょうと
1つは月間信州の東京
中村:
これですね
こっちは古いですけど
山岸編集長:
こちらは長野県人会連合会で発行しております
行事共通事業の1つとしてですね
それと連合会の主な行事の1つとしまして、新年会とか6月の定時総会
だとか、それからクリスマスパーティーとか
10月にはふるさと信州の集いという秋の大会がございまして、ここ2,3年は
芝公園のメルパルクホールで行いまして、1600人集まりました
その前は日比谷公会堂で2000人と
中村:
長野県の人が皆
山岸編集長:
長野県出身です
中村:
長野県出身の方が皆さん来られるわけですよね、当日は
山岸編集長:
当日はふるさと長野県からは県知事さんはじめ、地元進出の国会議員さん
お見えになるわけなんです
それで組織なんですけれども、長野県人会連合会の会長がいて、その下に
副会長というのが30,20名程おるんですけれども、この副会長の多くは
各地区の県人会長兼長野県人会
中村:
なるほど
だから何十名もいらっしゃるわけですね、副会長さん
長野県人会が各地に東京にあるのは…?
山岸編集長:
ですから各地区の県人会長は自分の所管する県人会の活動と、もう1つは
長野県全体の長野県人会連合会の統合等を推進するために、副会長という
立場です。
ですから、長野県人会連合会は共通の事業をしているということです
それで昭和5年は、当時東京に地方から就職した数が1番多いのが新潟県
でございまして、
中村:
そうなんですか
山岸編集長:
その次が長野県なんです
それで年々その東京の産業も発展して参りまして、その後東北とか北海道
とか、そういった地方からの就職地区が増えてきたんです
元々東京に多く就職したってのが新潟県と長野県ですね
中村:
なるほど
山岸編集長:
東京に近いですから
今では新幹線が走っていますから長野駅まで2時間足らずで行きます
けれども
中村:
時代背景が昭和と今全く違いますよね
中々そこは僕も知らないところですね
山岸編集長:
昭和5年という年は、地下鉄銀座線が東京で1番早く出来た地下鉄なんです
けれど、ちょうど上野駅から日本橋、銀座まで工事を行った年なんです
初めて東京で地下鉄が開通したと
ですから、それまでは当時は国電電車とか都電とか自転車でいろんな活動を
する場合の交通網は自転車が多かったんじゃないですかね
ちょっとした東京都内を連絡して歩くには
中村:
昭和5,6年といったらどうなんだろう、バイクがあるくらいですか?
車ってまだそんなにないですよね
山岸編集長:
ちょうど昭和5年という年はアメリカの国が不況になりまして、それが
世界各国に影響して、大不況、昭和不況という時代だったんです
長野県の場合は生糸、養蚕をして作る
生糸の産業が主力だったんですけれど、大打撃を受けたわけです
それで長野県としても桑畑で桑を作って、蚕を飼って、生糸の生産
これが主力産業だったんです
中村:
その当時は
山岸編集長:
ええ
その後だんだん養蚕産業が所謂生産量が減ってきまして
とにかく長野県として80%は山ですから、だから水田の平野というのは
少ないわけです
それで今までの山間部にある桑畑をリンゴを栽培しようと
リンゴの生産をして長野県の果物を販売していきましょうと
全国でリンゴは生産青森県ですけれど、今全国で2番目くらいの生産地に
成長しました
中村:
リンゴ有名ですよね
山岸編集長:
それと当時新潟県も長野県も兄弟が非常に多い
長男は家の跡取りましょう、次男三男は東京に就職するという時代でした
特に長野県内の産業というのは無かったもんです
それでやっぱり知らない土地の東京に就職して、誰が1番頼りになるかと
言ったら同じふるさとから東京に就職した人なんです
それでお互いに仕事のことだとかいろいろな困ったことだとか、そういった
ことをお互いに長野県人として助け合って東京で仕事をしましょう
というのが最初の繋がりであります
中村:
今でいうと本当に海外で日本人同士集まってみたいなものですよね
山岸編集長:
海外で日本の国で集まっているのと同じように
中村:
そのくらいの感覚だったでしょうね
山岸編集長:
やっぱり知らない場所で働くというのは大変ですよ
今でこそ新幹線があるから長野まで早いですけれど
中村:
そうですね
山岸編集長:
昔は各駅停車で、碓氷峠越える時には汽車の煙が入らないように、トンネル
くぐる時は窓を閉めて
長野駅からですと6時間から7時間かけて東京に就職して、先輩が上野公園
で待っているよとか長野駅で待っているよと
そこから人生始まったと、そういう時代ですから団結力というのは
ありました
中村:
集団就職は新潟県に次いで長野県が2番目というのは、ああ、そうなんだ
と思いました
余計にそういうのあるんでしょうね
東京と長野県の繋がりの歴史というんですかね
山岸編集長:
やはり就職、仕事を求めて働く場合は東京が地理的にも1番いいし、名古屋
とか大阪も入っていますけど、これはちょっと遠いですから
長野県人会連合会は昭和5年の10月26日に創立総会を行いました
約200名くらい千駄ヶ谷の公会堂に集まりまして設立したわけですけれど、
今年は創立90周年になります
長野県人会連合会を設立する前から各地区には県人会組織がありましたので、
ある地区では、町田市の場合は100周年になります
だから連合会組織よりも早く作った組織もありますから
大正時代の終わりからですね、古い県人会は設立されていました
中村:
その各地区にあった、もう自然発生的に県人会というのがたぶん出来てきた
んでしょうね
山岸編集長:
出来たんです
同じ地区で「ご出身どちらですか?」と「長野県ですよ」と
じゃあ私の知っている友達もこの地区に住んでいるから、そういう自然発生
的に、そういった方が核となって徐々に増えていった
PR活動をしてですね
中村:
これもまた連合しようというのは結構大変だったんでしょうね
その地区の長をやっているかって分からないわけでしょう
登録されているわけじゃないんですよね
各地にある長野県人会をひとつにまとめた理由
山岸編集長:
ですから、連合会の設立するときの実行会長さん大変で
実行委員長さんの自宅を事務局として、それで各地区の知っている人を、
例えば各地区の代表者が10人とか20人集まって、どういう形で創立総会を
開こうかと、PR活動はどのようにしたらいいのかと
それで各地区の代表者が集まる
じゃあそのくらいの人数が創立総会に集まるのだろうかと
それは各地区の県人会の皆さんが、私の会は何人集めますという
中村:
各ごとにね
山岸編集長:
ですから、いろいろ長野県人会連合会の記念誌を読みますと、創立する時
には大変な労力と時間と
よく出来たと思いますよ
中村:
各バラバラに自然発生で出来たものを1つにまとめていくわけですもんね
繋いでいかなきゃいけないわけで
山岸編集長:
そういうことです
中村:
同窓会と逆ですね
個々のクラス会とか同期会とかみたいなのがあったりして、それを全部
繋げていって、1個の組織にして行くということになるわけですね
山岸編集長:
ですから、さらに大きくするためには関東の既にある各地区を全部まとめて、
長野県人会連合会という大きな組織を作れば、いろいろな行事とか活動も
例えば月刊誌の発行だとか、長野県出身の人が皆で集まって信濃の国を
歌って楽しみましょうとか、そういう大型催しが出来るんです
これ各地区単位だったら月刊誌の発行出来ませんから
中村:
出来ないですよね
月刊「信州の東京」について
山岸編集長:
この月刊信州の東京も昭和5年創刊でございます
中村:
そうなんですか
山岸編集長:
はい
中村:
何号まで出来ているんですか、これは
90周年×12ということですか
山岸編集長:
そうですね
中村:
昭和28年のやつで1238号ですから
山岸編集長:
12か月×年数なんですけれど、1ヶ月に2度3度発行していたと
思うんですよ、創業期は
中村:
唯一の情報交換の、あれだったんでしょうね
山岸編集長:
当時のことですから、そこまでの本は作られてなくて
中村:
当然そうですよね
山岸編集長:
ページ数も少なくして、いろいろな必要事項だけ配って、それが1つの
情報源となって、だんだんと広がってきたという状況です
中村:
当時その印刷物を作るだけでも結構大変だったと思います、たぶんね
山岸編集長:
大変だったと思いますよ
今の時代と違いますから大変な時間がかかったと思います
貴重な情報源
中村:
そうでしょうね
でもその情報というのは嬉しかったんでしょうね
山岸編集長:
やっぱり懐かしいというのはまず聞きますから
ふるさとの情報見ると「ああ、今自分の生まれ育ったこの地域はこのように
町が変化した」というような懐かしさが入ってきますからね
中村:
やっぱりそういうお話を聞くと県人会というのは、東京に出てきて私は
1人ぼっちじゃないみたいなね
同じふるさとの仲間がこの近くにいるんだというだけで、寂しさというか
その1人ぼっちじゃない感じが、助けてくれる人がいるとか、一緒の同志が
いるとか、そういうのはすごく励みになったでしょうね
山岸編集長:
当時は東京で修業を積んで独立して会社とか店を作られるという方が
多かったんです
今は修業を積んでという時代ではないですけれどね
ですからお互いに事業を起こして、それで会社を大きくしてきたと
商売の繋がりも出来ますからね
そういう繋がりで先輩の皆さん達はやってこられたと思います
月刊「信州の東京」に携わられるようになったのは?
中村:
これに携わっているのはどれくらい
山岸編集長:
月刊紙は今私1人です、編集担当は
中村:
毎月これをやるんですか
山岸編集長:
はい
今は編集技術も発達してパソコンが普及しておりますから、原稿をお寄せ
いただいている方は、メールに添付してご提出いただきます
それを私は印刷会社の方に転送して作るんですが、昔はパソコンのない時代
ですから
中村:
まあ、そうですね
山岸編集長:
400字詰め原稿用紙物差しで線引いて、この方の記事はここまで、写真は
これと全部測ってやっていた
中村:
それいつ頃から始められたんですか、山岸さんこれに携わっているの
山岸編集長:
今年ちょうど丸4年でございます
中村:
あ、まだ4年なんですか
山岸編集長:
はい
この編集の仕事始めたのが67歳の時からなんですけれど、それまでは先程
申し上げました長野県人会の秋の大会、ふるさとの信州の集いという
大型催しがあるんですが
その大会の前日に出席者にお見合い品、ふるさとの物なんですけれど、
飲み物とか食べ物とか
その袋詰めをして、大会当日は早く行ってそれを受け付けの方に運んで
大会が始まりますと、受付とかそういう仕事をしておりました
たまたまその仕事をしていたところ、編集担当が欠員になったので応募して
ご縁があってこちらの編集の仕事をするようになりましたけれど
中村:
今70になられたんですよね
山岸編集長:
はい
月刊「信州の東京」は編集長が担当、その苦労とは?
中村:
パソコンを駆使してメールとかってすごいですよね
山岸編集長:
いや、最初は苦労しました
事務局にパソコンが得意で経理とか各資料作っている者に、その都度
聞きながらやっておりました
中村:
例えば編集長がおられて、そういうパソコンに長けた方を使って
出来ているのかなと僕思っていたんです
これ100ページくらいありますからね
山岸編集長:
100ページ毎月ですからね
中村:
そうなんですよ
山岸編集長:
ですから毎月原稿締め切りの第4週、月末の週と月が明けた第1週は、
構成でかなり忙しくなりました
中村:
そうでしょうね
これ例えば山岸編集長がいなくなったら止まっちゃうんですか
山岸編集長:
いや、例えば私が病気になった場合は事務局の職員が手書きで来る原稿が
たくさんあるんですけれど
中村:
それはあるでしょうね
山岸編集長:
それから原稿をワープロで打ったままの物については打ち変えを
しているんです
中村:
打ち変えをする
山岸編集長:
今は通常はパソコンで送信するんですけれど
ですからその仕事はもう出来なくなりますから、全部印刷会社に手書き原稿
を打ち込みしてもらったりとか、次の原稿担当が見えるまで
1人というのは病気になったら大変だし、1週間くらい休むと変わりの人が
おりませんので
今の時代ですから、事務局の仕事と編集の仕事とかと区分するのではなくて、
パソコンの出来る人が、普段は事務局の仕事をしていても編集の仕事
手伝ったり、事務局の仕事が忙しい時は編集担当が事務局の各資料を
作るような、お互いにチームワークでやっていくような時代に
なっていくかと思いますね
県人会の運営について
中村:
県人会の運営会費とか印刷代とかいろいろかかるじゃなないですか
こういうのどこから出るんですか
山岸編集長:
支払いの原資は会員からの年会費収入と企業からの広告
中村:
確かに広告たくさん結構あるなと思っていたんですけれど
山岸編集長:
広告収入があるから発行出来るんですよ
会員も3種類に分かれておりまして、普通会員、維持会員、特別会員
普通会員というのは年会費4200円
維持会員というのは、なるべく会員を維持して長く継承してもらいましょう
ということで維持会員
中村:
維持会費は4000円じゃないんですか
山岸編集長:
7000円になります
特別会員は会長とか副会長とか理事とか役員の皆さんが年間13000円
ですから、一般会員の3倍が特別会員なんです
3種類に分けて会費をいただいていますから、何とかやっていけるという
事情です
中村:
ちなみに会員数というのはどれくらいいるんですか
山岸編集長:
長野県人会は会員数が約3500人
これは連合会の会員になっている人だけの人もいます
各地区の県人会だけに加入している人もおります
ですから長野県人会会員は何人だということになりましたら、3500人です
そのうち会報を購読している方はだいたい2000人
中村:
そうしたらこれは各地区に送るわけですか
どうやって配布しているんですか
山岸編集長:
配布方法は会員の自宅に配布しております
中村:
もう郵送しているわけですね
山岸編集長:
もちろん専門業者に頼んでですけれど
それから長野県の各地区町村ですね
地区町村役場、それから長野県議会の図書館、観光関係の団体には全部配布
しております
中村:
これはやっぱり3000部くらいは発行しているわけですよ、たぶん
山岸編集長:
だいたい2000部くらいですね
先輩の皆さんに聞きますと、だいたい10年前と比較すると半分に
減りましたね
会員の高齢化ですね
中村:
そうですか
長野県人会連合会の今後の課題とは?
山岸編集長:
それで結局昭和5年から連合会の会員を作ってきまして、今は80歳代から
90歳代になっているわけです
自分の子供たちは、奥さんが東京の人で子供も東京の小学校、中学校
出ていますから、お爺ちゃんが亡くなったら跡は継がないわけですよ
正直な話、愛着無いですから
今後の課題は20代30代40代の若い方に入ってもらいたい
それと今の時代は独立して会社作るということはなかなか出来ない時代
ですね
各企業がどんどん巨大化してくるような時代ですから、東京で修業を積んで
大きくしようと言ったら
ほとんどが公務員とか民間会社に勤めるサラリーマンになるわけですよ
サラリーマンとか公務員はそれぞれ勤務先の勤務時間に基づいて仕事して
いるわけですから
その合間にちょっとこの仕事やるのも大変でしょう
中村:
それは無理ですね
山岸編集長:
会社も休めないし、やっぱり仕事第一ですから
ですから若い人が無理でも昭和24年生まれ、私そうなんですけれど、
昨年70歳になりました
昭和22年23年24年生まれが団塊の世代でございまして、戦後の
ベビーブームみたい
この層が会社勤めを終えましたので、これからがやっぱり長野県人会の活動
に力を入れていただければと思います
支え、支えられ
中村:
松代高校の関東支部の支部長としてふるさとへの思いというものを語って
いただいた時に、自分が長野と東京の懸け橋になれば良いんだみたいなお話
を伺った時に、非常に感銘したことがあるんですけれど
その思いというのを継承していくというのは結構
作業を継承するのとは違うじゃないですか
山岸編集長:
そうですよね
中村:
それを是非編集長の方から長野の方にも見ていただきたいですし、生の声で
こういう紙媒体とはまた伝わり方が違うと思うんです
山岸編集長:
そうですね
是非ご覧の皆さん、ふるさと信州を、皆さんのふるさとでございます
それで自分の子供、孫の時代まで伝えて、永遠にふるさとの信州が良くなる
ように、また、ふるさとに帰って昔のお友達と会ったりとか
それでまたお友達が東京に出てきた時にはコミュニケーションを図って
いただきたい
というのは、今世の中科学技術がものすごく発達致しましたけれど、
やっぱり心と心の結びつきが1番大きいんです、信州人として
そういう輪をどんどん広げていきたいという風に思っております
昨年の10月12日に台風19号に遭いまして
中村:
ありましたね
あれも大変でしたよね
山岸編集長:
千曲川が決壊して大変な被害だったわけです
12日土曜日の翌日、13日が長野県人会連合会の大会で
まあ、東京も交通がストップされ大変だったんですけれど、何とか開催
出来たんですが
連合会の秋の大会の当日、長野県と被害状況を会場で連絡取って
中村:
なるほど
山岸編集長:
義援金の箱を置きまして、出席者にだいぶご寄付をいただきました
中村:
ちょうどそのタイミングだったんですね
山岸編集長:
ええ、翌日
各地区の県人会の皆さんが募金活動を続けておりまして、それで昨年の12月、
それから今年の1月2月と集まった募金を全部長野県に寄付を行いました
2月7日に長野県人会連合会の新年会がございまして、この時に私ども
長野県人会連合会長の鈴木敏文のほうから、長野県からお見えになった
阿部県知事に目録として差し上げまして
長野県知事から感謝状を頂戴致しました
やっぱりふるさとが災害に遭ったら大変だと、皆で募金しようと
中村:
なるほどね
山岸編集長:
この行動力は早いし素晴らしいですね
だいぶ多くの募金が集まりましたね
ふるさとを思う気持ちが強いということですね
中村:
本当に被災された方は大変だったと思うんですけれど、東京で活躍して
おられる方、地元にはいないけれどそこから援助が来るというのはお金以上
のものがありますよね
山岸編集長:
まず災害のあった当日、翌日も
中村:
そのタイミングなんですね
山岸編集長:
テレビで報道されますでしょう
だけど皆さんやっぱり自分のふるさとの状況はどうかと
皆さん電話で全部確認を致しまして
私の出身地の松代町も千曲川の沿線にあるんですけれど、各支流から千曲川
の川に水が流れないですよ、いっぱいですから
近くに溢れ出しまして、床上浸水だいたい60cmだったそうです
お風呂にも入れないということで、近くのホテルのほうで大浴場を開放して、
近隣の住民がそちらへ行ってお風呂に入ったということで、大変な被害で
今は廃材、ゴミの処分に困っているというような
ゴミをどんどん運んでとにかく片づけをしなきゃいけないものですから
ですから私が11月2日に取材も兼ねまして松代へ帰ったんですけれど
高速バスで行ったんですけれど、やっぱりバスの窓から見る千曲川は、
もう全部千曲川の河川敷の畑は流されちゃったわけです
中村:
また生で見ると違うでしょうね
山岸編集長:
翌日家族の人が皆腰をかがめてゴミを拾っているわけですよ
非常に悲しい光景でした、無残にも
無上の洪水でしたね
中村:
そうですね
山岸編集長:
一瞬のうちに流れちゃうわけですから、野菜畑とか芋畑が
もう無残ですね、皆流されてしまったわけですから
それで地域の人は、町会の人だとかそれぞれ関係団体の人がやっぱり公共の
道路だとかゴミ片付けたり、もう大変な作業です
町の人が一丸となって復旧作業したという光景でございましたね
中村:
そういう時こそこの県人会があって良かったなって
山岸編集長:
ですから県人会組織がございましたので、皆でまとまって少しでもお役に
立てるようにということで募金活動を行いました
皆気持ちよく、これは大変だということで、大変多くの金額皆さんから
お寄せいただきました
関東近郊の長野県人会について
中村:
県人会というの、例えば信州の東京でこれは東京都だけなんですか
山岸編集長:
近隣の、例えば
中村:
千葉とか神奈川とかは
山岸編集長:
ございますね
大宮市県人会とか千葉市県人会且つ長野県人会連合会に加入していると、
この関東地区のですね
中村:
関東地区で良いんですね
なるほど
山岸編集長:
はい
ですから他の都道府県にも長野県人会はあると思いますけれど、私どもは
詳しく把握しておりませんけれど、大きなのは名古屋市県人会とかは
ございます
中村:
山岸様は信州の東京の配布範囲というか会員のカバーしている地区
というのは東京だけではなくて良いわけですね
埼玉だとか
山岸編集長:
埼玉、神奈川県、千葉県とか
中村:
とかはありなんですね
山岸編集長:
ございます
中村:
なるほど
山岸編集長:
関東、首都圏ですね
関東一連ということでございます
長野県人会連合会のホームページご覧いただいて
そうしますと電話とか又はパソコンのメールで加入後希望者から受信
致しますので、即こちらの見本誌を発送させていただいております
中村:
そうですね
毎月届きますもんね
山岸編集長:
毎月です
長野県内の77の市区町村役場から交代で掲載させていただいておりますし、
観光関係もございますので、是非ご加入をお願いしたいと思います
中村:
そうですね
山岸編集長:
やはり東京で仕事をしていて1番良かったのは、同じ高校、中学を卒業した
人と友達になりまして、お互いに仕事の大変なこともあります
悩みもあります
1番相談しやすいのはやっぱり同じ長野県人会だと
中学、高校の同級生ですね
ですから、それが随分精神的な支えとなってきました
勤務先の上司とか家庭の人に相談出来ないことも、友達に相談
私はこれが1番良かったと思いますね
中村:
思いをいろいろ山岸様のほうから皆様にお伝え出来ればなということで
本当に貢献したいという思いだけで来ていただいて、少しでもそういうもの
がお伝え出来れば良いかなという思いがね、今日は取材させていただき
ました
ご足労いただきまして本当に今日はありがとうございました
山岸編集長:
ありがとうございました
長野県人会連合ホームページ
http://www.shinsyu-tokyo.jp/